どうも、
ギレルモ・デル・トロ作品には
毎回一定の距離を保ちつつ、
新作は欠かさずチェックしている
IWAっす。
今回は、
『シェイプ・オブ・ウォーター』
和風・浮世絵風イラスト付きで
3分でレビューっす!
さて、なぜ僕がデル・トロ作品に
毎回ある程度の距離感を感じずに
いられないのか?
それは、
彼の作品に毎回内包されている
ある重大な“呪縛”。
それが関係しているっす…。
それでは3分レビュー!
コップ一杯分の愛でいいから
持ってきてちょうだ〜い!
カツオ〜!(魚だけに)
※作品の核心に触れる記述は多め
多様性など糞くらえ
1962年、アメリカ。
政府の秘密機関”航空宇宙センター”で働く清掃員のイライザ(サリー・ホーキンス)。
過去の事故により声が発せない彼女はある日、研究対象である”不思議な生き物”(ダグ・ジョーンズ)と出会う。
日々交流を重ねる二人だったが、エリート軍人であるストリックランド(マイケル・シャノン)が”彼”の生体解剖を提案する。
“彼”を助けようとするイライザだったが、数々の思惑が交錯し事態は思わぬ方向へと向かうのだった。
監督、ブレずに平常運転
今作を観終わった直後の感想は、
ズバリこれ。
異形の怪物や社会的マイノリティ同士の共鳴。
そしてそれを良しとしない外部の世界。
度重なる被迫害の末に、彼らは別の世界へと逃避行する。
物語の構造は、
正に監督の過去作である
『パンズ・ラビリンス』そのもの。
そしてこれこそが、
デル・トロ作品ひいては
“アウトサイダーズ(異端者)”を
描いた作品における“呪縛”と言えるっす。
『シザーハンズ』にせよ今作にせよ、
何故
最終的にマジョリティと
マイノリティが共生する結末に
ならないのか?
なぜ、孤独な存在は孤独なままなのか?
僕はこの点において
長いあいだ疑問を感じてきたし、
それこそがデル・トロ作品に
毎回距離感を感じてしまう一番の理由
だったっす。
しかし、
この『シェイプ・オブ・ウォーター』を
監督のインタビューなども併せて
紐解いてみると、
その“呪縛”の必然性が
うっすら理解できるようになったっす。
この物語は単純に表現するなら、
ラブストーリーで間違いない。
ただし、
それ自体が実はある大きな
真のテーマへのトリガーだった
ことに気付かされる。
その真のテーマとは、
自分自身が本当に
いるべき場所とはどこか
すなわち、この作品は
自分の還る(かえる)場所を探す物語
であるということっす。
主人公のイライザは幼少時に
川に捨てられた過去を持つ。
そして毎朝、
浴槽の水の中で自慰行為をする。
そして丘に上がった人魚姫よろしく、
言葉を話すことができない。
つまり、
彼女の起源は水であり
コンフォートゾーン(くつろげる場所)
も同じように水中であること
が暗示されているっす。
そして、
“不思議な生き物(以下サカナくん)”
とのラブストーリーを通じて、
自分が在るべき場所へと帰っていく。
このさかなくんは、
劇中で人の傷を治癒したり、
細胞組織を蘇らせるような、
正に神のような存在として描かれる。
監督は今作のインタビューで次のように
語っている。
「モンスターたちは“普通であること”に迫害された殉教者であり、“完璧であること”に迫害された聖人なんだ。」
FOX SEARCHLIGHT MAGAZINE vol.11より引用・一部省略
これを読むに、
モンスター=マイノリティとは
監督にとっては神にも等しい存在
であることが伺えるっす。
これこそが、
僕が長年感じていた、
何故、異端のマイノリティと
マジョリティが共生する結末は
ないのか?という疑問に対して、
一つの解答となったっす。
つまり、
神と人とは共生できない
と。
月並みだが、
役者陣が体現する
キャラクターの表現力は大変見事っす。
イライザを演じた
サリー・ホーキンスについては、
ミュージカル映画のステップを真似て一人ニヤついたり、バスの窓に帽子をあてがい頭を乗せるシーンにおける、表情や仕草だけで感情を表現する演技が見事でいて本当に可愛らしい。
また今作における、
水に浮かぶ卵やバスの窓の水滴の動き(もろに受精のメタファー)は明らかに羊水の暗示であり、作品全体が生命賛歌のモチーフに溢れた作品であるっす。
そのためか、
悪役であるストリックランド
に対しても人間味溢れる描写が多い。
良き父であり、
新車を買ってご機嫌になったり、
それをぶつけられてシュンとしたり、
安いキャンディや薬に依存したりと、
多面的な表情を見せる。
後に自身の神格化に取り憑かれ、
その人間性を指と共に失っていくマイケル・シャノンの演技が本当に強烈で素晴らしい。
さすが、狂気じみた一般人を
演じさせれば彼の右に出るものはいない。
ここは文句なしの絶賛ポイントっす。
余談ではあるが、
指を自分で千切る千切らないの演出は
芥川龍之介の小説、
『羅生門』のニキビ演出に近いのでは?
と思ったっす。
ただし、そんな彼がラストで
無残にやられてしまう展開には、
「迫害する側への
拭いようの無い憎悪」
がやはり強く感じられる。
ここで例えばサカナくんが
ストリックランドの指を復活させる・
ストリックランドが
サカナくんを撃たない、
などの“赦す”演出が無ければ、
結局のところ、
「マジョリティと
異形のマイノリティは共生できない・
迫害されるマイノリティは
異次元(今作は水中)においてのみ
昇華される」
といういつもの
“デル・トロ感” に着地してしまっている。
ここは前述した監督の理念である、
“マイノリティ=神”の部分に抵触する
部分だが、やはりどうしても
“残酷な現実世界からの逃避”
に僕の目には映ってしまい、
残念ながらラストの展開には
カタルシスは生まれなかったっす。
イライザの首の両側にある傷の位置も、
露骨にラストに繋げる為のもの
でしかなく、
必然的過ぎてやや狙いすぎな面もある。
加えて、
これは重箱の角突きになるが、
サカナくんの実験室に
監視カメラがないのは
いくらなんでも強引では…?
と思ってしまったっす。
ただし、
今作の空間・衣装美術においては
これ以上ないほどに
世界観への訴求力が凄まじいため、
それだけでも鑑賞する価値は
大いにあると思うっす。
デル・トロの作家性を
強く押し出しながらも、
娯楽性にも富んでいる今作。
そのため、
新規ファンには間口が広く、
従来のファンも十分納得できる
理想的な作りとなっているのは
明らかだと思うっす。
そして
声高に多様性が叫ばれる
昨今においても尚、
そんなものは形だけでしかなく、
多数派と少数派の共生は
未だおとぎ話でしかない
というデル・トロの一貫した信念を強く感じたっす。
今回はここまでっす!
それでは!
コメントを残す